ブックタイトル日本結晶学会誌Vol62No2

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概要

日本結晶学会誌Vol62No2

神谷信夫際にはさまざまな制約から回折強度が測定される逆空間の範囲は有限であり,式(3)から計算される電子密度分布には必ず級数打ち切りの効果が含まれる.無機物や有機物の結晶構造解析であれば,実験装置を工夫したり,極短い波長のX線を利用して測定範囲を広げ,級数打ち切りによる誤差を小さく抑えることも可能である.これに対してタンパク質の結晶では,単位格子の並進対称性が厳密ではないために,ウィルソン・プロット2)から見積もられる結晶の温度因子B crystが大きく,有意の信頼度で回折強度を測定できる範囲,すなわち分解能は多くの場合2 A程度に過ぎない.言い換えれば,タンパク質の結晶構造解析では逆空間の情報のほんの一部しか使われず,したがって無機物や有機物の結晶構造解析と比べれば,電子密度図から得られる構造情報の信頼性は低いと言わざるを得ない.また上記の級数打ち切りによる誤差は,電子密度分布の広い範囲にわたって負のリプルを生じさせるが,タンパク質の結晶構造解析では,原理的にはあり得ない,この負の電子密度に対する留意が不足している場合も見受けられる.これは炭素,窒素,酸素などの軽原子より結晶構造因子への寄与が大きい金属原子の周りで強く現れることがあり,金属タンパク質の反応中心の構造を2 A程度の分解能で議論する際には特に注意が必要である.タンパク質の分子量は,一部の例外を除き5万前後の平均値の周りに分布している.その結晶の単位格子には膨大な数の原子が含まれており,2 A程度の分解能の範囲に含まれる回折点の数は,構造パラメータの数の2倍程度にすぎない.これは構造を精密化する際に通常のフルマトリックス最小2乗法を適用できないことを意味している.そこでタンパク質の結晶構造解析では,便法として,アミノ酸残基,結合している補因子や基質に対する既知の構造情報を観測関数に加えた制限付き最小2乗法がもっぱら用いられている.この精密化法はきわめて有効なものであるが,原理的に,原子パラメータの誤差を計算から求めることはできない.すなわちPDBに蓄積されたタンパク質の構造情報には誤差が付随しておらず,物理的な測定結果としては,信頼度を判定できない曖昧なものと言わざるを得ない.この問題は,対象となる結晶の分解能を少なくとも1 Aを超えるまで改善してフルマトリックス最小2乗法を適用すれば解決できる.しかしながら,現状でこれに成功しているものは,分子量が1万前後より小さい特別な場合に限られる.一方,クリックシャンク3)は,タンパク質の原子座標に対する精度の目安として回折成分による精度の指標(Diffraction-Component Precision Index,DPI)を提案している.これは,PDBに登録された多くの構造情報の信頼度を判断するうえで有効であるが,DPIは運動学理論を前提として考察されており,タンパク質の結晶構造につきもののディスオーダーや占有率が1ではない不均一な領域の構造は適用範囲から除外されていることに留意する必要がある.3.酵素反応過程のその場観察ADPリボースピロリン酸加水分解酵素(ADPRase,電子付録の図S-1参照)は,基質のADPリボース(ADPR)をアデノシン一リン酸(AMP)とリボース-5’-リン酸(R5’P)に加水分解する.4-11)高度好熱菌に由来するADPRase 8,10,11)の分子量はモノマー当たり19 kDaで,ホモダイマーとして機能する.ヌクレオチド誘導体のピロリン酸部位を加水分解するNudixファミリーに属し,活性部位にはNudixモチーフGX 5EX 7REUXEEXGU(U,疎水性アミノ酸残基;X,任意のアミノ酸残基)を有する.ADPRaseの反応にはMg 2+,Mn 2+,Zn 2+といった2価の金属イオンが必要とされ,Nudixモチーフに含まれる3つのグルタミン酸残基(Glu82,Glu85,Glu86)が配位して反応中心を形成する.ADPRaseの反応機構に関する研究は,X線結晶構造解析や変異体の機能解析によりすでに進められていた.4-9)われわれは当初1.7 A程度に留まっていた結晶の分解能を0.9~1.2 Aの範囲まで改善したうえで,Mn 2+イオンを結晶にソーキングして反応を開始させ,異なる反応時間でクライオトラップ(100 K)した結晶の構造解析を行って,反応のその場観察を試みた.10,11)その結果,ADPRaseでは,アポ酵素(E状態)にADPRが結合した二元複合体(ES状態),これに1個目の2価金属イオン(M1)が結合した三元複合体(ESM状態,ADPRはピロリン酸部分のコンフォーメーションを変化させてADPR*となっている),さらに2個目の2価金属イオン(M2)が結合した四元複合体(ESMM状態,これを経てADPRの加水分解が進み生成物のAMPとR5’Pが出現する)の3つの反応中間体を経て加水分解反応が進行することが示された(電子付録の図S-2,S-3参照).本稿では誌面の都合から詳細な議論を省略するが,本研究のように1 A程度の分解能で結晶構造解析を行えば,ディスオーダーにより複数の成分が混在する領域についても,少なくとも2成分系までの構造には一定の信頼性を期待してよいようである.図1は反応時間6分のESM状態の構造からM1の周りの構造と対応する青の電子密度図(黒はES状態のADPRに対する電子密度図)を重ねたもので,Mn 2+イオンに典型的な8面体型の配位構造を明瞭に確認することができる.この構造解析では,M1の周りに制限構造を設定しておらず,Mn 2+イオンと2個の水分子(W1とW2)は独立に精密化されている.そのためM1とそれを取り巻く6個の酸素原子の間の距離は1.9~2.5 Aの範囲でばらついており,結合距*図S-1,2,3は, J-Stageの電子付録(Supplementary)をご参照下さい.100日本結晶学会誌第62巻第2号(2020)