ブックタイトル日本結晶学会誌Vol61No4
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日本結晶学会誌Vol61No4
福山恵一図2 Michael G. Rossmann教授の65才を祝う会(1995年).前列中央がMichael G. Rossmannで左隣がR. Huber.(Celebration of 65 th age of Prof. M. G. Rossmann(1995). Center of front row is Prof. M. G. Rossmann, His left side isProf. R. Huber.)はMichaelで,私はKeiichiであった.彼は研究の虫であった.彼は通常朝研究室に現れ,夕方になるといったん帰宅した.夜再び現れ深夜までデスクワークをしていた.米国ではすでに週休二日制になっていたが,彼は土曜日も大抵研究室に来ていた.ポスドクの何人かは研究室に現れていた.彼は褒め上手であり,時々実験・研究しているポスドクと議論したりしていた.ある日の夜ホームパーティで彼が奥さんと会話していることを横で聞いていた.彼の奥さんはポッテリーをしておりそれを「ビジネス」と言っていたが,彼は「研究はホビーだ」とさらりと言っていた.その頃日本では回折強度測定は4軸型回折計が主であったが,Purdue大学では写真法であった.日本では太いX線ビームを結晶に当てていたが,ここではダブルミラーで集光した細いX線ビームを結晶の1箇所に当てる方式であった.写真の振動角も小さかった.この場合結晶のモザイク幅を見積もることが必要になるが,このプログラムの原型も彼が作り,部分反射の積分強度問題に対処できるようにしていた.彼自身が解析にタッチすることもあった.例えばこの頃まではモデルビルディングはリチャードボックスを使っていたが,彼はいち早くグラフィクスプログラムFRODOをインストールした.彼は長時間薄暗い部屋にこもって,FRODOを使ってSBMVの構造の精密をしていた.日本では5年以上経ってFRODOが使えるワークステーションが出回るようになった.私は1982年に帰国したが,その頃彼が始めていた動物ウイルスであるライノ(風邪)ウイルスを手がけ,類縁のポリオウイルスに取り組んでいるグループとデッドヒートを繰り広げた.結局両ウイルスとも解析結果は1985年にpublishされた.彼はこの解析においていち早くシンクロトロン放射光を回折強度測定に取り入れた.放射光だと1つの結晶から一枚の回折写真しか得られず,彼は一枚ごとにプロセスするプログラムを開発した.この方法はその後XFELで測定した回折像をプロセスするプログラムの原型になっているようである.彼はライノウイルスの1つのサブユニットに特異的に結合し,結果ウイルス粒子を安定化する(解離しにくくする)化合物を開発した.これと並行してRNAが粒子からどのように出ていくかについても明らかにした.この化合物は風邪薬プレナリコールとして市販されている.彼は1980年代後半からライノウイルスだけでなく,いろいろなウイルスの構造決定に手を広げていった.その頃からX線結晶解析だけでなく,この数十年間に大きく進歩した電子顕微鏡もウイルス構造解析に取り入れた.最近ではSBMVやライノウイルスよりはるかに大きく複雑な動物ウイルスを,電子顕微鏡をも併用して研究を繰り広げていた.彼は半世紀前すでにX線結晶解析で有名であったが,その頃から電子顕微鏡の長所をわかっていたのかと感心せざるを得ない.彼の長い研究生活の中で彼の研究室から多くのポスドクが巣立っていった.図2は今から約25年前集まったその時までのポスドクの集合写真である.これを見てもいかに多くのポスドクなどの研究員を彼が率いてきたかがわかる.近年ではProtein Data Bankについても貢献があった.「I never retire.」が彼の昔からの口癖であった.文献昭和と平成の今昔物語―タンパク質結晶学の周辺―, BookWay(2014).210日本結晶学会誌第61巻第4号(2019)