ブックタイトル日本結晶学会誌Vol61No2
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日本結晶学会誌Vol61No2
渡邉信久君を偲んで院していますがそれも束の間で1月22日には再入院しました.この間も体や目の痛みが激しくそれに耐えなければなりませんでした.目も見づらくなり,1月10日に外来受診で網膜剥離が起こっていることを告げられています.見づらくなっても音声入力で病状を客観的に報告し続けました.渡邉信久君は大澤文夫先生が96歳でこの春亡くなられたことを知っていたらしく,3月8日13時26分「大澤先生は残念でした」を最後に,投稿が途切れました.不安で苦しく,居ても立っても居られないときに,彼は正確に病状を報告し続けました!渡邉信久君以外にはできそうにもないことだと思います.何事も全力投球で行い,そして時折私を困らせては面白がる茶目っ気も備えた,友であり弟子である渡邉信久君を永久に失ったことは断腸の思いです.君が,最後の時をまったく苦しむことなく,安らかに永眠されたことを中川敦史さんから聞き,幾分ほっといたしました.心からご冥福をお祈り申し上げます.満57歳というと病気にさえならなければ働き盛りの大黒柱のはずでした.大黒柱を失い,ご家族の方々は言葉に出せないほどの悲しみと不安,寂しさに苦しんでおられることと存じます.くれぐれもお体を大切にしてください.時は遡りますが,渡邉信久君は私が名古屋大学理学部化学科の固体化学講座の助教授当時,卒業研究のため当講座の田仲二朗教授の下に配属され,修士課程に進学し熱心に勉学,研究に励んでいました.君はレーザー分光の研究を行っていたので,私の専門とは大きく異なる分野でしたが,大変優秀な院生で強力な色素レーザーを手作りで完成し,難解なテーマをこなしていたので,私はその研究態度や能力に期待し,機会があれば一緒に研究を行いたいと思っていました.私は1985年当時,筑波研究学園都市に建設が進められていた高エネルギー物理学研究所(KEK)・放射光実験施設(PF)に教授として赴任することが決まりました.一方,1986年から渡邉信久君は筑波大学博士課程福谷教授の院生になり,タンパク質の構造解析が行いたいということで私達のグループに参加しました.修士課程時代とはまったく異なる分野を専攻する訳ですから,日本では解析ソフト,機器も未発達の当時では,いきなり分子量が19万ダルトンもあるタンパク質のX線結晶解析を行うのは無理だとは思ったのですが,本人が敢えて挑戦したいというので,ω-アミノ酸アミノ基転移酵素の結1晶構造)を多重同型置換法により解析するテーマを与えました.彼は超人的な能力でタンパク質結晶学を学び解析を進め,私の心配を吹き飛ばし,博士課程満了と同時に博士号を取得しました.渡邉信久君が短期間で解析に成功した理由の1つに「彼の几帳面さ」を挙げることができます.すなわち,ただ単によく学び実験するだけでなく,実験装置の点検から始まり,細心の注意を払っ日本結晶学会誌第61巻第2号(2019)てきわめて高精度のデータ収集を行う「几帳面さ」がありました.私は彼が収集したデータを用いて計算された差パターソン図を最高精度の例として幾度も講演で使用させていただきました.渡邉信久君は院生当時からタンパク質用実験ステーションの世話をしてくれました.博士号取得後は日本学術振興会特別研究員になり,さらに1990年以降1999年10月1日に北海道大学理学研究科に助教授として赴任するまでPFの助手としてタンパク質結晶解析およびその装置開発に関する研究ならびに共同利用の世話も行い,多大な成果を上げてこられました.PFは共同利用の放射光施設である以上,理想的な共同利用形態を作り上げることが私達の理想であり,その理想を最も忠実に実行してくれたのが渡邉信久君でした.理想を実現するに当たりまず次の2点を実行することにしました;1世界最高のタンパク質結晶解析用データ収集装置の開発,2共同利用者が安心して利用できる形態の整備.前者について申しますと,ワイセンベルグカメラをタンパク質結晶のデータ収集に導入したのは私ですが,それを発展させるには渡邉信久君の協力なしにはおよそ不可能であったと思われます.特に,共同利用を時間分割ラウエ法にまで広げ最初に実験結果を出したのは渡辺信久君です.私も時分割ラウエ法には大変興味があったので,その装置開発のために文部省科学研究費(一般研究A)を取得し渡邉君とともに開発を行っていました.彼はほとんど毎日KEKの工作センターに通い,センターの技官の協力を得て試作機を完成させ,BL6Aに設置してPFにおいてラウエ法によるミリ秒オーダーの時分割実験が可能であることを証明いたしました.この研究成果が基礎となり,文部省科学研究費(重点領域研究)が1993年度より4年計画で行われ,多くの方々のご協力を得て多大な成果を収めることができました.この研究に不可欠なBL18B実験ステーション2)については設計から建設に至るまですべて彼が中心となって行いました.もう1つ重要な研究として回転傾斜集光分光器の開発を掲げることができます.当時広く用いられていた三角ベントモノクロメーターは集光能が大きく波長幅もシャープで良いのですが,適用波長幅がきわめて狭いため,波長を変える度にモノクロメーター用結晶板を取り換える必要がありました.この欠点を補うための原理的なアイデアを渡辺博士に伝えたところ実用可能な素晴ら3しいモノクロメーターの開発)をしてくれました.このように常に私の右腕となり,装置開発ならびに世界初の放射光利用タンパク質結晶構造解析を積極的に進めてくれました.北海道大学に赴任してからも渡邉信久君の開発研究心は衰えを見せず,遂に神業に近い,フリーマウント139