ブックタイトル日本結晶学会誌Vol59No4
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日本結晶学会誌Vol59No4
木下誉富有利である.ただし,自己阻害構造は1つとは限らず,まだまだ見逃しているものも多い.例えば,結晶化コンストラクトが適切ではないために,自己阻害機構の解明に至っていないケースも考えられる.阻害剤との相互作用を観測する目的では,通常はキナーゼドメイン以外の領域を除いたコンストラクトで結晶化する.しかし,第4章で取り上げたTrkAでは,JM領域が阻害剤の選択性を決めていた12)(図9)ことからも示唆されるように,X線結晶構造解析に供するコンストラクトの設計には慎重を期すべきである.前章までにたびたび述べてきたように,キナーゼ分子は構造柔軟性が高いことが特徴である.生体内では,ほとんどのキナーゼはheat shock protein 90(HSP90)などのシャペロンと共存していることが知られており,最近,その様子が構造解析により示された. 15)キナーゼドメインの構造は大きく歪んでHSP90に捕捉されており,改めてキナーゼの構造柔軟性の高さを痛感させられる.構造柔軟性が高いという性質は酵素反応を行うために重要であるが,阻害剤を設計する際には障害となる.このキナーゼ分子の動的性質を分析するために,分子動力学計算によるアプローチが力を発揮し始めている.また,実験的なアプローチとしてNMR解析により,溶液中でのコンホメーションの存在比率を求めて動的要素を理解することができる. 16)これによるとERK2はリン酸化体となっても活性構造をとるものは80%であり,残りが不活性構造で存在すると分析された.もちろん平衡状態にあり,不活性な自己阻害構造に作用する阻害剤の有用性が再確認される.Kinetics解析の重要度が増していくと考えられる.今でもさまざまなメカニズムが提唱されているが,slowoffつまり解離が遅い阻害剤が有利であるとされる.ここではAgafonovらのイマチニブの研究を挙げる. 17)イマチニブの分子標的はabelson tyrosine-protein kinase(Abl)であり,X線結晶構造解析の結果から複合体の相互作用の詳細がわかっている.一方,イマチニブは,Ablと同じTKであるsarcoma viral oncogene homologue(c-Src)に対しては阻害活性が3,000倍近く低いにもかかわらず,両キナーゼとの結合様式はほとんど同じである.それでは,この活性の違いはどこから生まれるのか?イマチニブはAblに対して解離がきわめて遅く,c-Srcとの解離は速いことがわかった.これにより,3,000倍もの活性差が生まれたと説明している.ただ,われわれが意図的にslow off阻害剤を創出するには,kineticsの差を説明する論理的基盤がまだまだ足りていない.これにはキナーゼ分子の構造形成メカニズムにまで踏み込むことになりそうだ.また,創薬分子設計の全般にかかわる事柄かもしれないが,溶媒和・脱溶媒和を含むエントロピー項の定量的解析も残された課題である.単純化して考えるとエントロピー項は起こりうる事象をできるだけ網羅すれば精度が上がっていくので,計算機・計算手法の進歩によりいずれは解決すると予想される.以上のように,キナーゼの構造生物学および創薬研究を進化させるためには,X線結晶構造解析の精度を上げることはもちろん,中性子線構造解析,バイオインフォマティクス,分子動力学計算,NMRによる動的解析,kinetics解析など,ありとあらゆる周辺技術を駆使して,生体内で起きている現象を詳細に解き明かすことが重要になる.6.おわりにわれわれはキナーゼのことを理解しているようで,全然わかっていないのだと思う.第2章で詳述したように触媒機構に関する分子メカニズムはおおむね理解されてきた.あとは中性子線構造解析によりプロトンの情報を加えるくらいだと考えている.一方,キナーゼの活性制御機構(とくに自己阻害機構)や基質選択機構などには,まだまだ謎な部分が多い.518種のキナーゼは無駄に存在するわけもなく,生体内ではきちんと分業してはたらいている.個々のキナーゼの役割を構造化学の目で正しく理解することが,1キナーゼ選択的阻害剤の創出につながる.あるいは,もっと進めば複数のキナーゼが疾患原因となっている場合には,それらキナーゼだけを選択的阻害する,しかも阻害強度を加味した化合物を簡単に創出できるかもしれない.そんな日が来ることを夢見ながら,粛々とキナーゼと対峙していこうと思う.謝辞本原稿の内容は,筆者がキナーゼ研究を行う過程で得た知見をまとめたものである.長きにわたりご指導,叱咤激励いただいた多田俊治名誉教授(大阪府立大学),研究の草創期を支えてくれた仲庭哲津子博士,曽我部祐里博士をはじめとする,研究グループに在籍した,すべての関係者に感謝いたします.また,仲西功教授(近畿大薬),松本邦夫教授(金沢大がん研),松本崇博士(リガク),澤匡明博士(カルナバイオサイエンス)ほか,多くの共同研究者に感謝いたします.文献1)G. Manning, D. B. Whyte, R. Martinez, T. Hunter and S.Sudarsanam: Science 298, 1912(2002).2)T. E. Nielsen and M. H. Clausen: Drug Discov. Today 21, 5(2016).3)T. Kinoshita, T. Nakaniwa, Y. Sekiguchi, Y. Sogabe, A. Sakurai, S.Nakamura and I. Nakanishi: J. Synchrotron Rad. 20, 974(2013).4)L. K. Gavrin and E. Saiah: Med. Chem. Comm. 4, 41(2013).5)J. J. -L. Liao: J. Med. Chem. 50, 409(2007).6)J. H. Park, Y. Liu, M. A. Lemmon and R. Radhakrishnan: Biochem.J. 448, 417(2012).180日本結晶学会誌第59巻第4号(2017)